修行の巻1
次の朝になった。皆で朝餉を食べ、龍之進の山籠もりの準備に掛かった。お菜実はお葉と下女と共に布団、米、味噌と野菜を揃えた。清兵衛は板の間に布団では格好付かないなと思い、下男に畳二畳を用意させた。ところでお菜実はハッと気付いたことがあった。
「龍之進様、ご飯は炊いたことがありますか?」
と質問すると
「母上からやり方を教わりましたが、実際に炊いたことはありません。」
「それではちょっと心細いですね。如何しようかしら。」
とお菜実が言った時、お葉が
「お母様、私がこれから一緒に行って龍之進様に炊き方をお教えします。」
と真剣な顔で言った。お葉はお菜実や下女と一緒に台所仕事をやっていたので、米を炊くのはお手の物だった。それを聞いていた清兵衛が
「お葉、皆と一緒に行って龍之進様にお米の炊き方を教えてきなさい。ついでに味噌汁の作り方もな。そしたら皆と一緒に帰って来なさい。」
と許しを与えたので、お葉は嬉しそうな顔をして言った。
「ありがとうございます、お父様。しっかりとお教えいたします。」
音吉と後二人の下男が荷物を分担して背負子に背負った。普通の畳は山道を行くには大きすぎるので、半畳の畳四枚を下男二人が背負った。お葉は何種類かの野菜と、龍之進の使うご飯茶碗やお箸を籠に入れ、龍之進の後を付いていった。山道の日の当たる所はタンポポ、スミレ、ヤマブキなどがたくさん咲いていて、お葉は楽しくて坂道を登る苦しさはあまり感じなかった。龍之進が歩みを遅くしてお葉の歩調に合わせていた事を、お蝶は知る由もなかった。
半刻余登ったところで小屋に着いた。早速皆で小屋の中の清掃をして、畳を敷きその隅に布団を置いた。そして音吉と一緒に龍之進とお葉が水汲みに行って、樽一杯の清水を汲んできた。残った下男と佐吉は土間の囲炉裏に火を入れていた。屋根の上には煙出しの小屋根があり、小屋の中は煙が充満することはなかった。お葉は龍之進と一緒に外で米を研ぎ、水の分量の目安を教えていた。その釜を囲炉裏の自在鈎に吊るして、吹き出す湯気の状態と火加減を龍之進にしっかり教えたのであった。
炊きあがってしばらく蒸した後、ご飯をお茶碗に少し盛って龍之進とお葉は食べてみた。ご飯に芯は残っておらず、芳しい香りのある味に
「美味しい! お葉さん上手だね!」
と龍之進は思わず叫んでいた。お葉はその一言だけで嬉しかった。龍之進の喜ぶ顔は、田舎で暮らすお葉の日常にとって一つの希望となりつつあったが、本人はまだ自覚していなかった。その会話を聞いていた佐吉と音吉は、我々も食べたいと言って試食した。
「オ! 本当に美味い!」
と口々に言った。お葉は少し顔を赤らめ恥ずかしそうだった。その後鍋で味噌汁を作った。お葉は来る途中採った菜の花やコゴミ、コシアブラなどを鍋に入れ、味噌の分量を龍之進に教えた。出来た味噌汁は絶品だった。これも皆が我も我もと試食して全員満足し、ひとしきりおしゃべりが弾んだのだった。お昼近くなったので皆は下に下りることになった。佐吉は江戸に帰るので、その見送りに龍之進も下りていった。屋敷に着くと、お菜実はお葉の顔を見るなり言った。
「お米の炊き方と味噌汁の作り方を、しっかりと龍之進様にお教え出来ましたか?」
「はい、お母様。皆様に美味しいと言っていただきました。」
「お葉さんは上手ですね。美味しいご飯が出来上がりましたよ。」
と龍之進が言うと、お菜実は満足そうに頷いた。そして龍之進は清兵衛に向かって言った。
「清兵衛さん、この十両を当面の食料と小屋の使用料で取っておいてください。」
しかし清兵衛は顔の前で手を振って言った。
「いけません。お葉の命の恩人から金を取れるものですか。」
「それではこのお金を預けておきます。何かあったらこれから出して下さい。」
と龍之進が妥協案を出すと、清兵衛は
「分かりました。それではその十両を預かっておきましょう。」
と言って龍之進から金を受け取った。そして龍之進は預けておいた大小の刀を受け取って腰に差した。久々にピシッとした気分になったのであった。すると佐吉が清兵衛に向かって
「清兵衛様、色々とお世話になりました。龍之進様の事よろしくお願い致します。それでは江戸に帰ります。」
と丁寧に挨拶し、次は龍之進に向かって
「龍之進様、体に気を付けながら修行に励んでください。」
と名残惜しそうに言った。龍之進は
「分かりました。体には気を付けます。江戸に帰ったら皆に、龍之進は厳しい修行をして必ずや自分の剣を編み出します、と伝えて下さい。」
と言って、決意を新たにしたのだった。皆で佐吉の見送りをした後、龍之進は清兵衛に言った。
「それではこれから山籠もりに入ります。たまに食料の調達に下りてきますのでよろしくお願い致します。」
「佐吉さんも言ったが、体には充分注意して修行に励んでください。」
と清兵衛が言うと、お菜実は
「たまには下りてきて下さいね。美味しいご馳走作りますからね。」
と言って、何故か自分の息子のような気がしてきたのだった。するとお葉が
「龍之進様、私、時々行ってお食事を作ります。いいでしょう?」
と思わぬ事を言った。お菜実は慌てて
「お葉、あまり修行のお邪魔をしてはダメですよ。」
と言うのを、龍之進は
「いいですよ。でも来る時は一人ではダメですよ。音吉さんと一緒に来て下さいね。」
と注意を与えた。その時清兵衛も頷いて許可していた。そして龍之進は闘志を秘めて一人で山に向かったのだった。
次回 地龍の剣13 に続く
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