地龍の剣20

   お別れの巻

秋も深まった頃、残る課題は出来るようになっていた。一刀斎と別れた後に、再度山に籠っていた龍之進であった。まだ左手では剣を振る速さが劣っていたのと、印地打ちの距離と精度を上げるための修行であった。しかしそれも漸く達成したので、修行を終えて江戸に帰る時が来たと感じていた。だが、江戸に帰る喜びより、ここを離れるという寂しさの方が強かった。

約一年半この小屋で暮らしたこと、山を走り回ったこと、お葉さんとの楽しい日々など今まで現実的にあったことが、思い出と言う心の檻に入ってしまうのである。もちろん名主の清兵衛さんやお菜実さん、音吉と別れる事は寂しい事だが、特にお葉さんと別れる事は、江戸に帰るか帰りたくないのかの葛藤の元だった。そのため龍之進は決心がつかなくて、江戸に帰る事を十日ほど言い出せなかった。しかしいつまでも伸ばせる問題ではないと決心し、山を下りて清兵衛の屋敷に向かった。

屋敷に着いたのは昼前であった。清兵衛は龍之進に言った。

「丁度良い所に来なすった。これから昼餉になります。一緒に食べましょう。」

「そうですね。私も御一緒しましょう。」

と龍之進は答えた。いきなり江戸に帰る話をするより、ちょっとした間があった方が話しやすいと思ったからだ。囲炉裏の回りに清兵衛、龍之進、お菜実そしてお葉が座って昼餉を食べ始めた。赤ん坊の良太郎は座敷で寝ているとの事だった。皆食べ終わって茶を飲み始めた。その時清兵衛が

「龍之進様、何か言いたそうですが何ですかな?」

と問いかけた。龍之進は言うのを少しためらっていた。すると清兵衛が更に言った。

「多分、江戸に帰る話ではないですか。」

とズバリ言ったのだった。清兵衛は、一刀斎と龍之進の立合いの結果で、そうなる事は予測していたのだった。龍之進は話の切っ掛けを与えられて話し出した。

「そうです。修行の結果が出ましたので、江戸に帰らなければならなくなりました。この二年間、皆様には本当にお世話になりました。お葉さんにはご飯を作って頂いたり、一緒にイワナ取りやマツタケ取りに連れていってもらったりで、本当に楽しかったです。」

と言う龍之進の言葉が終わらないうちに、お葉は必死に声を絞り出した。

「イヤ、イヤです。龍之進様が行ってしまうなんて。」

お葉は涙が溢れ出して、次の言葉が続かなかった。清兵衛もお菜実も、お葉の気持ちは痛いほど分かっていた。お葉は口にこそ出さないが、龍之進のお嫁になると決めていたのだった。

「お葉、無茶を言うんじゃねえ。龍之進様は、修行を達成したら江戸に帰れ、とお父上に言われているのだよ。」

と清兵衛は言ってはみたが、それはお葉も知っている事だった。お菜実は娘の余りの悲嘆した様子に、娘の肩をそっと抱いた。龍之進もお葉の悲しみは充分に分かっていた。それは自分も同じ気持ちだったからだ。龍之進はお葉にそっと話しかけた。

「お葉さん、余り悲しまないで下さい。未来永劫の別れではありません。江戸には帰りますが、またここへ来ますよ。」

「本当? また会えるのね、龍之進様。」

と涙に濡れた目で龍之進を見つめ返した。

「本当に来ます。マツタケをまた一緒に取りに行きましょう。餅つきは手返しをお願いしますね。」

「本当? 嬉しい! きっと来ますよね。」

「お葉さん、必ず来ます。待っていてくださいね。」

と言う龍之進の返事に、お葉は涙を袖で拭いながら微笑んだのであった。

「お葉、良かったな。」

と清兵衛は言いながら、少し滲んだ涙を手で拭いていた。その後しばらく話をして、氷川を去る日が決まった。そして龍之進は山に帰っていった。小屋の後片付けをするためだ。小屋のすべてに懐かしさが詰まっていた。板壁の節の位置や木目など、目を瞑っていても目に浮かぶのだった。片付けと言っても荷物はほとんどない。正確に言うと、ここを去るという心の整理が片付けであった。その夜は囲炉裏の火を見つめながらいつしか眠りについていた。龍之進の頬には一筋の涙の後が付いていた。そして小屋の外では満天の星が輝いていた。

翌朝、板壁の僅かな隙間から射す朝の光で目が覚めると、外で音吉とお葉が待っていた。お葉が

「今朝のご飯はお葉が作ります。」

と言って米を研ぎ始めた。音吉が龍之進に言った。

「お葉様は今朝早くから、炊き込みご飯の下ごしらえをしたのです。どういう炊き込みご飯かは、お葉様が話してくれると思います。」

お葉は持ってきた鍋から何か入った黒い汁を研いだお米に入れ、水加減を調整して火に掛けた。しばらくして小屋の中に芳香が漂い始めた。龍之進は、この芳香はマツタケと違うな、何だろうと思った。お葉は炊きあがると釜を下し、別の鍋を火に掛けて味噌汁を作り出した。具はネギと豆腐であった。

「さあ、朝餉ができました。食べてみて下さい、龍之進様。」

とお葉は言うと、炊き込みご飯を龍之進に差し出した。具は薄く切った黒っぽいキノコとゴボウであった。良い香りがご飯から立ち上がっている。龍之進は最初の一口を口に入れた。

「これは美味い! お葉さん、これは何と言うキノコですか。マツタケではないし?」

龍之進はお葉の顔を真直ぐに見て言った。お葉はこの朝初めてニコッとして言った。

「このキノコはコウタケと言います。マツタケと同じ頃生えるのですが、このキノコも滅多にありません。取ったら干して乾燥させ、使う時は水で戻して使います。香りがとても良いでしょう。私の大好きなキノコです。」

龍之進もニコッと頷いて、

「これ、本当に美味しいね。マツタケの美味しさに負けない味だね。お葉さんが大好きなのも頷けます。」

と言って、ご飯を口いっぱい頬張った。その時、音吉がいたずらっぽく言った。

「龍之進様、お葉様が作ったので余計に美味しいんですよ。」

「確かに。そうかもしれませんね。」

と龍之進は率直にいった。それを聞いたお葉は嬉しさが込み上げてきたが、顔が赤らんでくるのが恥ずかしかったのであった。

次回 地龍の剣21 に続く

前回 地龍の剣19

 

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タイに仕事で10数年滞在していました。日曜日はゴルフをしていましたが、ある時花の綺麗さとカラフルな鳥の美しさに気付いてしまいました。  それからはカメラをバッグに入れてゴルフです。あるゴルフ場では「写真撮りの日本人」で有名になってしまいました。(あ、ゴルフ場には迷惑をかけておりません。)それらの写真をメインに日本での写真も織り交ぜて見ていただければ幸いです。 また、異郷の地で日本を思いつつ自作した歌を風景の動画とともにご紹介していきたいと思っています。