風魔最後の秘策の巻
お風は天井下の惨劇をなす術もなく見ていた。家光暗殺計画は失敗し、頼りにしていた百蔵と万助の二人が倒されてしまったのだ。自分も下に飛び降りて家光に一太刀なりとも浴びせようとしたが、家光の横には万助を倒した清之進が辺りを警戒しながら警護していた。目的達成が無理な状況と、百蔵の死ぬ間際の最後の無言の指示がお風を止まらせた。補佐役の千助は失意のお風を促し、その場をそっと去って行った。中奥の御座の間は大騒ぎになっていた。龍之進は父にその場の後始末を頼むと、本丸から出て蓮池濠の向こう側に急いで向かった。そして松の木の陰に潜んで濠を見ていた。しばらくすると西詰橋と富士見多門櫓の間の石垣の上に二つの人影が現れた。石垣の松の上には立待月(満月二日後の月)が登り、二人の姿をくっきりと浮かび上がらせていた。
龍之進は忍者の退却路の推測が当たっていたことにホッとしたが、二人とは想定外であった。二人は淀むことなく石垣を降り、濠の中を泳いでこちら側に這い上がってきた。が、その時龍之進はお風を切る気持ちにはなれなかったのである。楓川の襲撃を受けた時にお風は匂い袋を身に付けていたのだ。それは今日もだが、忍者としては失格だった。でもそれはお風に普通の女の子の気持ちがある事を示していたのだった。龍之進は松の木陰から静かに姿を現した。
「お待ちしていましたよ。風魔のお風さん。」
お風と千助は待ち伏せされた事に驚いたが、その上相手が名前まで知っていたことに驚愕した。その動揺を隠してお風はゆっくり返答した。
「そう言うお前は?…如何して私の名前を知っているの?……そうか、楓川で御前様の後を付けた侍だな。」
千助はお風が意図的にゆっくりと返答している間に龍之進の後ろに素早く回り込み、高く跳躍して龍之進の頭上から刀を振り下ろした。龍之進はスッと屈み込み刀を垂直に突き上げた。千助の刀は空を切り、龍之進の刀が千助の太腿裏に突き刺さっていた。ウッと呻いて着地した千助は地面に崩れ落ちた。その時お風は矢継ぎ早に手裏剣を龍之進に打ち込んだが総て叩き落とされていた。素早く刀を抜いて龍之進に切り掛かろうとした時、
「お風さん、風魔一族の復讐をしていて楽しいですか。多分あなたのお爺さんである風魔小太郎が、あの世でこの復讐を喜んでいると思いますか。」
突然の龍之進の柔らかな語調の思い掛けない問いに、お風は打ち込む気勢を削がれ、知らぬ間に話に耳を傾け始めていた。
「あなたの父や母も亡くなったのでしょうが、赤ん坊のあなたを生き延びさせようとした気持ちは、復讐させるためだったのでしょうか。私は決してそうではないと思います。可愛い女の子の赤ん坊に、復讐させようという気は更々起きなかったでしょう。それよりも女の子の幸せを願い、女の子らしい人生を送れる様に望んだのではないでしょうか。お風さん、その気持ちを大切にすることが、父母や小太郎お爺さんの供養になると思います。復讐や敵討ちでは幸せを産みません。お分りの様に既にあなたの二人の仲間が逝ってしまいました。もう復讐は終わりにしましょう。さすればあなたを倒す必要はありませんし、逆に今後のあなたの生活のお手伝いや援助も出来ると思いますよ。」
龍之進の話が終わった時、お風は知らぬ間に刀を下げていた。
「そんな優しい言葉を掛けてくれたのはお前が初めてじゃ。お前は誰なのだ。」
「私は峰山龍之進と申します。堀留町堀の薪町に屋敷があります。今後の事をよく考えて私の言った事に納得したら、私の屋敷に来て下さい。そしてあなたの未来の事を一緒に考えようではありませんか。」
龍之進の話は終わり暫し静寂が訪れた。その時だった。太腿を刺されて蹲っていた千助がウッと呻いたのだ。有ろう事か、千助は自分の胸を刀で刺していたのだった。お風と龍之進は慌てて千助に駆け寄り、お風は千助を抱き起した。
「千助! どうして自分を刺したの?」
「お、お風様、龍之進様の言われるように、ふ、復讐は止めて、幸せな人生をお送りください。じょ、城内では天井から逃げたのは、ひ、一人だと思っていますから、わ、私がここで死ねば、お、お風様の身は、あ、安全になります。」
口から血を吹きながら、千助は必死にお風に訴えたのだった。
「千助! 死なないで! 私と一緒に生きるのよ!」
「お、お風様、わ、私は、もう、ダ、ダメです。お、お幸せに……」
「千助--!!」
お風の必死の呼びかけに、千助は微かに微笑みながら目を閉じていった。お風は嗚咽を堪えきれず泣いていた。龍之進はお風をそのままそっとしておいてやった。しかし、しばらくすると蓮池濠の南端辺りに灯りがちらちらと見えたのだ。龍之進は泣いているお風に言った。
「追手が近づいて来る。もうここから逃げなさい。千助の死を無駄にしないようにな。直ぐ行きなさい。」
お風は迫り来る灯りをチラッと見ると涙を拭いて
「このご配慮は終生忘れません。近いうちに必ずお屋敷にお伺い致します。」
龍之進にそう言い残して、お風は闇の中に消えていった。
千助の遺体は城内に運ばれて、本丸の庭に三人の忍者の遺体が並べられた。三人の懐には何もなかったが、四十過ぎの男の襟に小さな書付が仕込まれていた。取り出して見ると、風魔忍者三人の家光暗殺の血判状だったのだ。忍者は普通こんな事はしないのに、余程の覚悟で襲撃を企てたのだろうと皆は思ったのだった。そしてその三人は此処に遺体となって横たわっていて、風魔は今度こそ完全に殲滅したと確信したのだった。龍之進とお風を助けた話を聞いた父清之進を除いてはだが。
龍之進は血判状を持っていた四十過ぎの男が、血判状の最初に署名した百蔵という男で、風魔の実質的な頭領だなと推測していた。そしてこういう事態を想定して、最悪でもお風を逃がす手立てを用意していた周到さに驚いていた。そして千助にそのためには死ぬことを命令し、千助は見事にその役割を果たしたのだった。清之進と龍之進は三人の遺骸を引き取り、その夜の内にあるお寺に手厚く埋葬したのだった。
次回 地龍の剣63(最終回) に続く
前回 地龍の剣61
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