お蘭との再会の巻1
道灌山に通うようになって十日ほど経ったある日、山からの帰り道、屋敷近くの伊勢町堀である事件に巻き込まれた。堀際に髪結床の出床が出され、普段は海産物を運ぶ船の水夫たちで賑わっていた。ところがその日は水夫ではなく風体の好くない三人の男がお客で、三人目の髪結が終わった所であった。丁度その時龍之進はその近くを通りかかっていた。急に女の声が辺りに響いた。
「お客さん、髪結のお代を置いていってください。」
すると懐手の男が言い返した。
「こんな下手糞な髪結に金が払えるか。」
「お客さん、三人も続けてやっておいて何が下手なのよ。男なら払うものは払ってください。」
「うるさい女だ。俺たちはこれから飲みに行くところだ。そうだ、お前はちょうど酌婦に良いな。お前ら、この女を連れて来い。」
兄貴分らしい男が後の二人に命令した。男二人がバタバタと女に駆け寄り、嫌がる女を無理やり押さえつけた。女は必死になって男たちに掴まれた両腕を解こうとしたが、如何にもならなかった。その一部始終を伊勢町の角で立ち止まって龍之進は見ていたのであった。男たちが女を連れて立ち去ろうと歩き出した先に、龍之進はゆっくりと歩を進めその前に立ち塞がった。
「やい、三一(さんぴんー貧乏侍の事)邪魔だ! 怪我をしたくなかったらすっこんでろ!」
兄貴分が低い声で威嚇した。しかし龍之進は涼しい顔で答えた。
「その娘さんを放してあげて髪結代を払ってくれれば、いつでもすっこみますよ。」
「このヤロー、とぼけた事を言いやがって!」
兄貴分の返答に龍之進は更にとぼけて言った。
「お前たちの方はとぼけた事をやっているんだけどね。」
その返答が終わった途端兄貴分の顔が引きつり、懐から匕首を抜いて龍之進に突っかかっていった。龍之進は充分に引き付けておいて、相手の鳩尾(みぞおち)に木刀で突きを入れた。堪ったものではない。兄貴分はウッと呻いたままそこに突っ伏してしまった。
「やったな! 兄貴の仇だ!」
そう叫ぶと子分二人は女の手を放し、匕首を構えて左右から龍之進に迫った。二人が同時に突っ込んできた。並みの者では逃げれない、必殺の連係プレーだ。喧嘩馴れした連中であった。しかし匕首が届いたと思った瞬間に、龍之進の姿はそこにはなかった。刃が届く瞬前に、一歩素早く後ろに下がっていただけの事であったが、目標を失った二本の匕首が交差した。その瞬間二人の交差した手首に、上から木刀の鋭い一撃が襲ってきた。たったの一撃で二人の戦闘能力は失われ、二人の子分は手首を抑えてしゃがみ込んでしまった。
この騒動がどうなる事になるか心配して見ていた大勢の見物人から、やんやの拍手喝采が起こった。その時、やくざの手から逃れた髪結の娘は、去年の春の日本橋での出来事を昨日の事の様に思い出した。
「アア? あの人だ! 私を救ってくれた人だ。」
自分のスリを止めてくれた若く端正な顔の侍がそこにいた。そしてその侍が近づいてきた。
「娘さん、怪我はありませんか。」
聞き覚えのある、イヤ、決して忘れた事のないあの時の声だった。お蘭は慌てて返事をした。
「はい、大丈夫です。危ないところをお助け下さいまして有難うございました。」
「怪我がなくて良かったですね。出床で仕事をする時は気を付けて下さい。悪い奴も結構いますからね。」
そう言って龍之進は踵を返し、歩き始めた。お蘭は焦った。若い侍は昨年出会った自分の事を全く気付いていない。ここで別れてしまえば、二度と会えないかもしれないのだ。
「もし、お待ちください。去年の春、私が貴方様にお会いした事を覚えていませんでしょうか?」
龍之進は後ろから呼びかけられた言葉に立ち止まり、振り返った。この江戸で女性の知り合いはいないのだがと思った。しかし、去年の春という言葉に、頭の片隅で記憶が回転を始めたのだ。青梅街道の旅に出た頃か? 日本橋を渡って、という処まで来てアッと思いだした。
「オー、あの女スリですか?」
お蘭は慌てて龍之進の元へ駆け寄った。
「そうです。覚えていて下さいましたか。でもあの時からスリはきっぱりと足を洗いました。だからもうスリとは言わないで下さい。」
「そうでしたか。足を洗ったのですね。するとあの時の私の処置は良かったという事ですね。」
「はい。あの後、家に帰って弟と妹を見た時、あの家業をやめるとはっきり決心がつきました。あ、言い忘れました。私の名前はお蘭と申します。」
「お蘭さんですか。私は峰山龍之進です。」
「龍之進様ですか。今後もよろしくお願い致します。ご覧の様に今私は髪結の仕事をしています。同じ町内に江戸の髪結の世話役をしている長次さんがいて、そこに弟子入りして仕事を覚えました。いつもは江戸橋近くの按針町の長次親方の髪結床で働いています。髪結の時は是非いらして下さいな。」
「分かりました。その時はお邪魔しますね。それではここで失礼します。」
「龍之進様、お待ちしております。」
お蘭は去っていく龍之進の背をしばらく見ていたが、出床の店仕舞いに取り掛かった。こんな所で出会うなんて思いもしなかった。しかも窮地の自分を救ってくれたのだ。お蘭は嬉しさもあるが、運命の不思議さに感動していた。一方龍之進も人との出会いに運命的なものを感じていた。この出会いは神が仕向けたもので、今後も続くのではと感じていた。そして龍之進にある考えが浮かんでいたのだった。その時堀留町を歩いていた龍之進に、見知らぬ船頭が呼び止めた。
次回 地龍の剣29 に続く
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