氷川の山 見分の巻3
音吉が龍之進の息が整ったのを見て
「さて、それでは下の佐吉さんの待っている小屋に戻り、次は川向こうの鋸山に行きましょう。」
そう言うと二人は走って下り始め、あっという間に小屋に着いてしまった。佐吉が小屋の前の陽だまりにポツンと座っていたが、走り戻ってきた二人を見て、
「だいぶ早く帰って来ましたね。途中で引き返してきたのですか?」
と怪訝な顔で聞いてきた。龍之進は、
「佐吉、そんなことはありません。ちゃんと山のてっぺんまで行って来ましたよ。」
と涼しい顔で言った。音吉も
「龍之進様の登る速さは普通の人よりかなり速いと思いますよ。」
と言ったので佐吉は納得した。それから三人は氷川の集落に戻って、多摩川に架けられた丸太橋を渡った。正面に小高い愛宕山が聳えていた。三人は一気にそこまで登った。そこに小さな社があり、そこで昼餉を摂ることにした。大きなおにぎりを齧ると中にたくあんの漬物が入っていて、その塩気が美味しさを引き立たせ、硬いたくあんの歯ごたえが心地よかった。食べながら音吉が言った。
「ここから上は急な岩場が続きます。佐吉さんはここで待っていた方が良いと思いますが、如何なされますか?」
「音吉さんがそう判断するならそうする方が良いと思います。ここで待っています。」
と佐吉は答えたが、残念さ半分、嬉しさ半分の複雑な気分であった。大きなおにぎりを二つ食べ終わって音吉が言った。
「龍之進様の登る速さなら、鋸山の往復に一刻半ほどでしょう。ただ、岩場が急なので木刀が邪魔になるかもしれません。」
「分かりました。木刀は置いていきます。佐吉は退屈かもしれないけれど、ここで待っていてください。」
と龍之進は言って、音吉と歩き出した。最初はちょっとした下りだが、その後は登りが待っていた。でも最初の内は本仁田山の大休場尾根より緩い傾斜で、快調に登って行った。しばらく行くと前方に岩場が見えてきた。岩場のひどい所は垂直に近いところもあった。手も使い岩ばかりでなく木の根も掴んで登って行った。そのうちにひょいと見晴らしの良い岩場の頂上に出た。眼下には多摩川や日原川、氷川の集落、その奥に午前中登った本仁田山が見えた。
中々の景観である。二人はあそこが名主の屋敷だなどと言いながら眺めていたが、再度鋸山頂上に向けて前進を開始した。龍之進はもう岩場に手間取ることはなくなり、逆に岩場が面白くなってきたのだった。それぞれの岩場は様子が違うので、目の前の岩場をどのように登るのか考えて挑戦するのが楽しくなっていったのだ。そのうちに木々が立つ平らな場所に出た。音吉が後ろから来る龍之進に
「鋸山の頂上です。」
とにっこりして言った。龍之進は
「もう到着ですか。岩場は楽しいですね。」
と言って、そこに二人は座り込んだ。意外と足は疲労が少なかった。手も使っての登りだったので、全身心地よい疲れだった。頂上は林で展望がきかないので、少し休んだだけで戻りの下りに入った。岩場でない所は駆け足で下ったが、岩場は丁寧に下りないと危険で、特に急な岩場は後ろ向きで手も使って下りなければならなかった。でも想定した時間より早く佐吉の待つ愛宕山に着いてしまった。佐吉は二人の元気そうな顔を見て言った。
「お帰りなさい。如何でしたか。」
「イヤー、面白かったよ。岩場の登りは。」
と龍之進が感想を言うと、音吉は
「龍之進様は岩登りもなかなか上手ですね。ここでの修業もきっと為になるでしょうね。」
と言って、それから多摩川までの最後の下りに入った。そしてまだ夕方には早い時間に名主の屋敷に戻る事が出来た。入口を入ると土間にお菜実とお葉がいて何か片付けをしていた。清兵衛は囲炉裏端で帳簿を付けていた。龍之進は皆に
「只今帰りました。」
と言うと、お葉が二~三歩前に駆け寄り
「お帰りなさいませ、龍之進様。」
と恥ずかしそうに言った。そして清兵衛が帳簿を横に置いて言った。
「龍之進様、山は如何でした? 気に入りましたか?」
「小屋は住み易そうですね。又どちらの山も修行には打って付けと思います。清兵衛さんこちらからお頼みします。是非この地で修行させてください。」
龍之進の熱い言葉に清兵衛は笑顔で答えた。
「やはりここを選んでくれましたか。嬉しい事です。明日、早速布団や食料を小屋に運び込みましょう。」
話が決まったのを見て、お菜実が
「龍之進様、お風呂の支度が出来ております。汗を流してくださいな。」
と言って、龍之進を促して風呂場に向かった。龍之進が居なくなった後、清兵衛は音吉に問うた。
「音吉、龍之進様の足は如何だ。速いか?」
「清兵衛様、速いですよ。私の歩きについてこれます。本気の歩きにはまだ無理ですが。」
「そうか。やはりな。龍之進様が修行すれば、音吉、お前負けるぞ。」
「清兵衛様、それはありませんよ。山育ちのおらが江戸者に負けるもんですか。」
音吉は村一番の足の速さを自負していたのだ。しかし清兵衛はその時が来ると確信していたのだった。その夜の夕餉は囲炉裏を囲んでお菜実とお葉も加わり、家族の団らんのような楽しい食事となった。
次回 地龍の剣12 に続く
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