帰郷の巻2
「父上、修行を終えてただ今戻りました。」
久し振りの龍之進の声に父は頷きながら言った。
「龍之進、これから道場へ行け。修行が成ったか見て取らす。」
薄暗い道場で竹刀を持って二人は対峙した。道場横の廊下では、皆が座って心配そうに見ていた。ダメならまた氷川に再度修行に行かなければならないのだ。父はおもむろに大上段に構えた。渾身の速さで龍之進を打つ気でいた。龍之進は静かに右斜め下に竹刀を構えた。父は今まで見た事のない異質な龍之進を感じていた。大上段から怒涛の速さで竹刀を振り下ろせば、簡単に一本取れるように見える。しかし、何故か踏み込めないのだ。龍之進の斜め前に下ろされた竹刀が、恐ろしい生き物の様に感じるのだ。龍之進は父の竹刀の変化を待っていた。が、父の竹刀は動きそうにない。そこで龍之進は竹刀を僅か引いて誘いを掛けた。その瞬間、父清之進は大上段の竹刀を思いっきり振り下ろした。当てたと思う前に週之進の姿が消え、脇腹に鋭い打撃を受けていた。父の竹刀は横に向きを変えた龍之進の目の前で空を切っていた。
「見事だ! 龍之進!」
父は脇腹の痛みを堪えて叫んだ。廊下では皆がどよめき、安堵の声も聞こえてきたのだった。
その日の夕餉はにぎやかだった。源助爺と佐吉まで加わって、夜遅くまで談笑が絶えなかった。龍之進は皆に乞われて山小屋の生活やイワナ取り、マツタケ取りなどの話をした。皆は羨ましがって、イワナやマツタケを食べてみたいと大騒ぎになった。しかしその後、熊との戦いの話をするとそんな所へ行くのは御免だと、皆の気持ちがコロコロ変わって大笑いだった。一段落した所で、妹のさちが急に真面目に聞いてきたのだ。
「兄上、お葉さんてどういう人なの?」
龍之進は何故かどぎまぎして、答える話がぎこちなかった。その龍之進の慌てた姿を見て、さちは何かを感じていた。が、敢て何も言わなかったのだ。母のゆりもさちと同じ事を感じていたのだった。久々の団欒の長い夜は更けていった。
峰山家の秘密の巻1
次の朝、父清之進は、朝餉が終わったら仏間に来るよう龍之進に告げた。龍之進は素早く朝餉を終えると仏間に向かった。仏壇には灯りが入っていた。その前に父が正座し、源助爺と佐吉も部屋の隅に正座していた。が、もう一人の見知らぬ男が佐吉の横に座っていた。龍之進が正座すると、父は仏壇に丁寧に頭を下げた。皆もそれに倣い、父はゆっくり向き直り龍之進に話を始めた。
「我が峰山家は無役の旗本であるが、それは表向きで、実は将軍様からの直々のお指図で働いていることは知っているな。その仕事は将軍様の目や耳となり、幕府を揺るがすような動きや、江戸の町を不穏にする動きを察知する事である。そしてそういった動きを人知れず潰す事にあるのだ。幕府には似たような役目でお庭番など隠密の役目がある。しかし家康様はそれだけでは不充分と考えて、当家の爺様に密かにこの役目を命じたのだ。ここまでは分かったな。」
父はここで一息つき、龍之進は頷いた。
「そこで色々な情報を集める必要があるが、当然一人では無理だ。当家では江戸市中に情報を集める五人の町耳目が居る。この者達を源助と佐吉が束ねているのだ。しかし江戸の町も段々大きくなって五人では足りない。そこで龍之進、少なくとももう三人、出来れば五人位の信頼できる町耳目を見つけてもらいたいのだ。慌てることはないが、信頼できることが第一だ。とりあえず佐吉と一緒に今いる五人の町耳目と会っておくが良かろう。」
「分かりました、父上。ところで一つお聞きしますが、町耳目に手当はあるのでしょうか?」
「言い忘れたな。町耳目には年五両の手当てじゃ。そして重大な情報には別に情報料を渡しておる。金額は内容に依るがな。実はそういった費用として幕府から年百両の手当てが出ているのじゃ。その中でやり繰りする必要があるがな。」
「分かりました。それでは佐吉と一緒に町耳目に会いに行って参ります。」
と言って立上がりかけた龍之進を父が制して言った。
「ちょっと待て。その前にお前の手足となる男を紹介しておく。佐吉の横に座っている男で名を弥助と言う。歳はお前より七つ上の二十三だ。実を言うと源助の甥で、ある旗本屋敷に勤めていたのをこちらに来てもらったのだ。お前の手足になるよう源助と佐吉に色々仕込んでもらってある。これからは弥助と行動を共にいたすようにな。もちろん当分の間は佐吉にも手伝ってもらうことだ。」
弥助が龍之進に向いて、丁寧にお辞儀をした。弥助は少し丸い顔であるが、意志の強そうな目をしていた。
「龍之進様、お初にお目にかかります。弥助と申します。まだ諸事慣れてはいませんが、龍之進様の手足となって精一杯お勤めいたします。宜しくお願い致します。」
「弥助さん、初めまして。私も分からない事ばかりですけれど、お互い協力してやっていきましょう。」
弥助は龍之進の言葉と目を見て、この人ならどこまでも付いていけるなと感じたのだった。
「父上、それでは行って参ります。」
龍之進は佐吉と弥助と共に仏間から退出し、屋敷の玄関に出た。佐吉がこれから行く町耳目について説明した。
「龍之進様、最初に神田大工町の目明し、勇五郎親分の所に行きます。この親分の歳は四十前後で、鬼の勇五郎と言われています。探索や取り調べは厳しく、悪党どもには恐ろしがられています。けれどおかみさんは愛嬌があり、三味線の師匠をやっていて結構盛っているようです。」
「恐ろしい親分ですか。楽しみですね。それでは早速会いに行きましょう。弥助は場所を知っていますね。先導してください。」
三人は歩き出した。日本橋通り出て右折し、しばらく北に向かって行くと勇五郎親分の家に到着した。
次回 地龍の剣24 に続く
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