お別れの巻3
「ところでお葉、コウタケの炊き込みご飯は美味しく出来たかな。」
と、清兵衛はお葉に話を振った。
「あら、お父様は知っていたのですか。」
と、お葉は少し慌てたが、龍之進が
「清兵衛さん、とても美味しく頂きました。皆で全部食べてしまいましたよ。」
と言うと、清兵衛は嬉しそうに頷いた。そして音吉に問うた。
「音吉、龍之進様と山歩きの競争は如何だった? まさか負けたんじゃあるまいな?」
「清兵衛様、そのまさかなんですよ。一町ほど離されてしまいました。」
「やはりな。儂が言った通りだっただろう、音吉。」
「はい、峰山金太郎様にはさすがの音吉も敵いません。」
「何? 峰山金太郎?」
と清兵衛が訝しがるのを、お葉が山小屋での話を説明したのだ。そこで一同また大笑いとなったのであった。夜は更けてゆく。しかし囲炉裏の火はいつまでも明るく、皆の談笑は絶え間なかったのであった。
氷川での最後の朝が来た。目が覚めると谷側の流れる音が耳に響いてきた。この音を聞くのも今日が最後になるのかと思うと、やはり寂しさが込み上げてきたのだった。顔を冷たい水で洗い、囲炉裏端に行くとお菜実とお葉は朝餉の用意をしていた。清兵衛はぽつねんと囲炉裏端の定位置に座っていた。今朝は皆寡黙であった。朝餉をゆっくり食べて、お茶を飲み始めた。しばらくして清兵衛が沈黙を破った。
「龍之進様、いよいよお別れですな。」
「清兵衛さん、お菜実さん、お葉さん、長い間本当にお世話になりました。」
「龍之進様、お礼を言うのはこちらの方です。お葉を助けて頂いて本当にありがとうございました。」
とお菜実が言って頭を下げた。お葉はずっと目を伏せたまま身じろぎもしなかった。龍之進が務めて明るく言った。
「清兵衛さん、以前十両預かってもらっていますが、もう十両置いていきますので使ってください。」
と紙に包んだ十両を清兵衛に差し出した。
「龍之進様、前にも言ったが、お葉の命の恩人から金をもらう訳にはいきません。」
「清兵衛さん、十両は生まれた良太郎君のお祝いです。もう十両はお葉さんがいろいろ手伝ってくれた事への御礼です。そういう事で是非収めてください。」
清兵衛も余り頑固に断るのも角が立つと思い、龍之進の心遣いを率直に受ける事にした。
「分かりました。そういう事ならこの二十両有難く頂戴いたします。」
と、清兵衛が頭を下げた。龍之進が
「それでは、これでお暇致します。」
と言って立上がった。皆も慌てて立上り、龍之進に続いて門まで出た。
「それでは皆さま、お達者で。」
と挨拶すると、お葉が思わず前に出て、
「龍之進様、お元気で。また必ず会いに来て下さいますね。」
と言って、涙に滲む目で龍之進を見つめたのであった。
「お葉さん、必ず会いに来ます。待っていて下さい。」
お葉はコクッと頷いて龍之進の手を握った。龍之進もお葉の手を握り、しばらく見つめ合っていたが、
「お葉さん、それではまた会う時まで。」
と言って優しく手を放し、皆にお辞儀をした。龍之進はクルリと背を向けると、青梅街道を江戸に向かって静かに歩き出したのであった。
帰郷の巻1
紅葉の始まった多摩川沿いの青梅街道を、恐ろしい速さで下って行く若者の姿があった。だが足音は小さく、土埃もほとんど立てずに歩いていた。後から追い抜かれた旅人は、抜かれて初めて若者に気付くのだ。そしてあっという間に前方へ姿が小さくなっていくのを、唖然として見ているだけだった。二日目の午後には江戸に入っていた。甲州街道との追分に着いた若者は、見覚えのある茶店に入った。去年の春、青梅に行くときに寄った茶店である。
お婆さんが茶を持って出てきたが、逞しい姿に変わった龍之進に気付くはずもなかった。団子を二皿注文した。やがて出てきた団子をゆっくりと頂いた。甘くて美味しい懐かしい味だった。お茶のお代わりをして龍之進は、
「お婆さん、お団子、美味しかったです。」
と言ってお代を置いて立上り、お婆さんに訊いた。
「去年は駕籠屋の追剥が出ると聞いていたのですが、今は如何ですか。」
お婆さんは嬉しそうに答えた。
「去年の春過ぎから、追剥がパタッと出なくなったらしいよ。何でも若いお侍さんが追剥を懲らしめたという噂だ。皆さん安心して街道を歩いているよ。」
「そうですか。それは本当に良かったですね。」
と答えて龍之進は店を出た。追剥の頭の新垣才十郎は、龍之進との約束を守っていた。でも今はどうやって暮らしているのだろう、という心配が頭の隅をかすめていた。
江戸の中心に近づくにつれて、道には多くの人が歩いていた。賑やかな呉服町を抜け、日本橋手前に出た。橋の上はかなりの人通りで、江戸は変わっていないなと龍之進は思った。橋の袂に来た時、そういえばあの女スリは如何しているのだろう、と思い出したのであった。あの後真っ当な仕事をしていれば良いがと思ったが、確かめようがなかった。
雑踏の日本橋を渡ると屋敷は直ぐ近くだ。しばらく進み右に折れて行くと堀留町に出た。屋敷のある薪町はもうそこだ。堀沿いの道に面した屋敷が見えてきた。懐かしい門を潜ると大声で叫んだ。
「龍之進、ただ今戻りました。」
静かだった屋敷が急に騒がしくなった。バタバタと真っ先に源助爺が玄関に走って来た。その後から佐吉、そしてお種婆さんがあたふたと出てきた。そして母ゆりと妹のさちが、裾を抑えながら速足で出てきた。さちはだいぶ大きくそして女らしくなったな、と龍之進は感じたのであった。母の目は少し潤んでいるようだった。最後に父清之進がゆっくりと現れたのであった。
次回 地龍の剣23 に続く
前回 地龍の剣21
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