修行の巻2
本仁田山の大休場尾根の広場の小屋に戻った龍之進は、先ほどお葉が作ってくれたご飯と味噌汁を腹八分目食べて食事を終えた。食べている最中はお葉の言った米を炊く時のコツや、嬉しそうなお葉の顔を思い出していたのだった。食事を終えて外に出ると、最初は木刀の素振りから始めた。最初はゆっくりとあらゆる方向へ振る。だんだん速度を上げて行き一刻近く振った。程よい汗をかき手拭いで拭うと、尾根を頂上に向けてゆっくりと走り出した。
傾斜は直ぐきつくなった。でも速度を変えずに我慢しながら走り続ける。少し休もうという誘惑との闘いの連続である。心臓がかなり踊ってきてもう駄目だと思ったとき、平らな山頂に到着した。しかし休む時間は僅かだ。呼吸が少し落ち着いてきたので、小屋に戻る下りに入った。坂が急なため歩幅は狭くし、その代わり速い調子で下って行った。小屋に着いて水を一口飲み一息入れた後、真剣を抜いてゆっくり振り始めた。木刀よりも当然重いが、軽く振れてスッと刀が走る。手と体に馴染ませるため一刻程素振りの稽古をした。
夕闇が迫り小屋に入った龍之進は、味噌汁を温め直しご飯にかけてゆっくりと食べた。食事の途中は家族の事や名主の一家の事など頭の中を通り過ぎていったが、次第に明日からの本格的な修行について考え始めた。今までやってきた稽古の他に、動きをもっと早くするための稽古をしようと考えた。半刻程あれこれ考えていたが埒が明かないので、明日のために寝ることにした。小屋の隅に畳んである布団を敷いて初めての一人ぼっちの就寝となった。直ぐに静かな寝息になり、山の夜は更けていった。
翌朝まだ薄暗い時に目を覚ました。直ぐに囲炉裏に薪を入れ、初めて自分一人で米を炊いた。そしてニラとカブの味噌汁もつくった。さきにカブを入れて火を通し、そしてニラを入れた。それによってニラは煮え過ぎず新鮮な風味が残るのだ。最後に味噌を入れ鍋を下す。これは味噌の風味を残すためだ。こういった事は昨日お葉が教えてくれた事だった。おかずはお葉の持ってきた沢庵とニンニクの味噌漬けだけだった。
そんな質素な食事ではあったが、自分が生まれて初めて作ったという事で、どんな豪華な食事より美味しさを感じたのだった。ただご飯にいくらか芯が残っていたが、それさえもよく噛むと美味しかったのだ。朝日が出始めた頃、木刀の素振りを始めた。更に走りながら振る事や飛び上がりながら振る事も加えた。特に飛び上がって振る時、地面に下りるまで二回振れないかと挑戦も始めたのである。本仁田山山頂までの走りは毎日の日課になっていった。そして一日は暮れていった。
次の日、音吉が美味しいものを持って来てくれた。五~六匹のイワナを塩でまぶして、囲炉裏の遠火でじっくりと炙ったものだった。食べると魚の身は柔らかく、塩が効いていてとても美味しかった。今朝早く川で取ってきたイワナという事だった。近いうちにイワナ取りを音吉に教えてもらう事にした。その日の昼と夜の食事は豪華なものとなったのであった。
五日ばかり経った朝、音吉がお葉と一緒に来た。約束通りイワナ取りを教えるというので三人で山を下りた。お葉もイワナ取りをするのは初めてなのである。目的地は日原川と安寺沢の合流付近ということで、小屋から見るとすぐ下の沢という事になるのだ。川岸に来ると音吉は両手の掌に手拭いを二巻きづつ巻いた。手拭いを巻くことによって、捕まえた魚が滑って逃げられるのを防ぐのである。音吉は膝くらいの瀬にそっと入っていき、流れの中の大きな石の下を両手で探り始めた。数個の石を探った後、音吉の手がグッと石の下に伸びて止まった。
「一匹捕まえましたよ。」
と音吉は言うと、石の下から両手で魚を掴んで水の上へ持ち上げた。そしてその魚を龍之進とお葉のいる川岸にひょいと投げた。七寸ほどのイワナが川岸の小石の上で跳ねている。
「オオ! 捕れたぞ!」
「ワー! 捕れた! 音吉さん、上手!」
龍之進とお葉は思わず叫んでいた。そしてお葉は飛び跳ねるイワナを急いで捕まえて魚籠に入れた。龍之進も手拭いを手に巻いて流れの中に入った。ヒンヤリするが川面がキラキラ光って美しい。音吉から離れた場所で岩の下を探った。何もない。次の岩の下に手を入れた時、手にピクッと何かが触れ慌てて手を閉じたが何も掴んでいなかった。
「音吉さん、魚いたけれど逃げられた。」
と龍之進が叫ぶと、音吉は
「魚に触れたら直ぐ手を閉じない事です。岩の奥へそっと押し込んで、岩に押し付けながら魚をそっと捕まえて下さい。」
と魚取りの秘訣を教えた。龍之進は
「成程、逃げられないようにして捕まえるのか。剣術と通ずる所があるな。」
と感心したが、直ぐ次の大岩に行って実戦で試すことにした。岩の下に手を入れていくと魚に触れた。それを両手でそっと奥に寄せていく。奥の石壁に突き当たった所でそっと手を閉じた。掌の中で大きな魚が暴れ始めたが、しっかりと掴んで水面上に引き上げ、岸に放り投げた。お葉が飛び跳ねる魚体を慌てて押さえつけて叫んだ。
「大きい! 尺物のイワナです! 龍之進様!」
その声に龍之進も急いで岸に上がった。細かな斑点が虹の様に煌めく大きな魚体に龍之進は興奮し、生まれて初めてイワナを取ったことに感動したのだ。しかし無邪気に喜ぶお葉の顔を見た時、お葉にも早くイワナを取らせてあげたいなという思いが強く込み上げてきたのだった。自分の手に巻いてある手拭いを取ると、お葉の手を取って手拭いを巻き始めた。お葉は急に龍之進に手を取られた事に、戸惑いと恥ずかしさの入り混じった感情で、龍之進に巻かれる手をじっと見ていた。巻き終えると龍之進はお葉の顔を見て言った。
「お葉さん、取り方は音吉の言った通りです。先ずあの岩の下を探ってみましょう。」
その言葉にお葉は自分の着物の袖と裾を少したくし上げて川の中に入った。白い綺麗な足が川のせせらぎに揺らいでいる。手を水の中に沈めていく。そうっと探ったが何もない。首を振ると次の岩の下を探った。アッと小さな声を発したが、そのまま手を岩の下に押し込んでいった。動きが止まった後、急に手を水の上に出すなり川岸に魚を放り投げた。キラキラ光る魚体が青い空を舞って行く。川岸にいた龍之進はその魚体をハシッと受け止めた。見た目は単なる魚取りだが、二人の間には何か熟成していく時間が過ぎていくのであった。ただ、本人たちにはそれにあまり気付いていないのであるのだが。
次回 地龍の剣14 に続く
前回 地龍の剣12
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