木曽 黒川 白山御嶽神社

九蔵峠や城山で景色を堪能した後、帰りに木曽町の黒川中流にある白山神社(白山御嶽神社)に行って来ました。ここの本殿が素晴らしいという事で、どんなものかと寄って見たわけです。

下の写真… この神社は道路に案内は有りません。木曽福島と新地蔵トンネルの中間位で、直ぐ近くに釣り場のみやま苑があります。道路沿いに小さな駐車場があり、その奥にこの石柱と後ろに鳥居が見えます。

下の写真… その駐車場に白山御嶽神社の案内板がありました。鎌倉時代の創起という事で、その時代にはこの山の中で神社を建てる財力を持った人がいたという事です。

下の写真… 鬱蒼とした境内で、ヒノキの大木がこの神社の歴史を感じさせてくれます。

下の写真… 神社入口を流れる川に水芭蕉の花が咲いていました。暗い森に白い花、一際映えます。

下の写真… 鳥居をくぐった右側に石碑がいくつかあります。右に行くほど苔が生えて古そうです。手前の二つは綺麗なので最近の物かなと覗き込みました。

下の写真… これが1番目の石碑です。右側に安政4年(1858年)と彫り込まれています。え? 江戸時代の石碑? 何でこんなに綺麗なの? と驚きました。字を彫り込んだ角や、石造の細い線もほとんど崩れていません。石材が特殊? 空気が綺麗(木曽五木のフィトンチッドの為?)、それとも世話人講中が手入れして磨いている? まったく分かりません。たいていの石碑の字は判別するのに苦労するほど崩れているのですが。

そしてこの石碑は上に蚕玉大明神(こだま大明神)と書かれています。ただ蚕は難しい字になっています。これは蚕玉様(こだま様)といって、養蚕の神様を祭っているのです。すると江戸時代のこの地の経済は木曽五木(ヒノキ、サワラ、アスナロ、ネズコ、コウヤマキ)の林業と養蚕になります。貧しい山村ではなかった事がうかがえます。

下の写真… 境内の様子です。でも、あれ?て思いませんか。普通は拝殿が正面に見えるのですが、この神社はそっぽを向いています。この入口は東向き、拝殿は南向き。何か謂れがあるのでしょうね。先程も書いたように境内の木は立派です。木曽五木を植えてあるとの事ですが、どの木が何の木か分かりません。どれも針葉樹なので素人にはさっぱり分かりません。葉を見れば分かると言いますが、大木なので葉ははるか上でよく分かりません。

下の写真… 拝殿です。代わり映えのしない普通の古い拝殿と思うでしょう? ところがどっこい、2つ程凄い事があります。一つは左側の柱の後ろに大きな丸い木の筒があります。竹のタガで上から下まで締めています。これは花火筒だという事です。江戸後期から大正時代まで各部落の花火打ち上げ競争が行われていたという事です。それはこのブログの2枚目の写真の案内板に書かれています。今でも自作の花火筒の花火が行われている所がありますが、これほど巨大なものはありません。恐ろしいほどの花火になると思います。それともこの花火筒は大きくした展示用のものなのかな?

下の写真… 拝殿を横から見た所です。もう一つの凄い事がこの画面に現れています。階段をご覧下さい。板ではありません。角材がそのまま階段になっています。多分ヒノキだと思いますが、今から見ると非常に贅沢な作りをしています。あと2つ気付いた事があります。上の写真に戻りますが、ガラスの戸に何か白い模様が映っていますね。正面の戸には左を向いた寸胴の蛇(ツチノコかな?)の様なものがいます。目が歌舞伎役者の様な大きな目です。また右側の戸の上には右を向いた狐がいます。耳と目がそれらしさを表しています。マー、偶然でしょうね。最後に、この神社に大きな鈴とお賽銭箱がありません。その理由は分かりません。参拝する事の意味をもう一度深く考えてみるきっかけになりそうです。

下の写真… さて目的の本殿です。この写真は左側(西)から撮った写真です。言い方は良くありませんが、山の中の神社としては破格の社殿です。まず、彫り物が凄いですね。屋根の作りも本格的です。階段は当然角材を使っています。たぶん総ヒノキの造りだと思います。

下の写真… この本殿の説明の案内板がありましたので載せておきます。ここで社寺建築に立川流というのがあることを初めて知りました。そこで少し調べてみると、江戸時代に社寺建築で大隅流と立川流の二大流派が競っていたそうです。諏訪出身の塚原和四朗は江戸に出て立川流の社寺建築を修行し、その立川棟梁が和四朗を娘婿にして跡継ぎにしようと思ったそうです。でも和四朗は承知せず諏訪に帰って、立川和四朗富棟として諏訪の立川流を起こしたのです。でもその頃全国を制覇していた大隅流としばしば対立したそうです。そこで諏訪藩主が両派に同規模の社殿、立川和四朗富棟には諏訪大社下社の秋宮を、大隅流には春宮の建築を命じました。その結果は秋宮を建てた立川流に軍配が上がったそうです。今の我々から見ればどちらも凄いのですが、これを機にもう一度春宮と秋宮を訪れてみたいと思います。他に立川流が建てた主な寺社は、諏訪大社上社、長野善光寺、静岡浅間神社、静岡秋葉神社本宮、豊川稲荷、京都御所などで、こんなに凄い流派の人たちが諏訪にいたとは思いもしませんでした。

そして立川富棟の子の富昌が二代目を継ぎ、この人の腕は更に凄く「幕末の甚五郎」と呼ばれたそうです。そしてその弟子にこの説明文に出て来る木曽の斉藤常吉がいました。後は説明文の様になります。

下の写真… さてそこで以前ブログ「大見山登山2」で秋宮をご紹介しました。ブログに載せた写真とは角度が違いますが、これが諏訪大社下社の秋宮です。白山神社は規模は違いますが、同じ流派の匂いがしてきます。斉藤常吉棟梁はこの初代富棟の造った神殿を参考にして白山神社の本殿を建てたのでしょう。ただの神社でなくその後ろに色々な歴史が隠れていたのですね。

下の写真… 説明文にある瓢箪から駒の彫刻です。この場合駒は木曽馬の事でしょう。

下の写真… 龍は中々迫力があります。

下の写真… 麒麟の彫刻です。龍も麒麟も想像上の動物です。キリンビールの麒麟も同じですね。顔は横を向いていて、一つの目は金粉がはげ落ちていて顔と認識するのが難しいのですが。

下の写真… 後ろ面ですが、手を抜いていません。

諏訪に日本一の立川流がある事で納得した事があります。諏訪人のDNAの中にこの立川流の誇りが流れているのではないでしょうか。江戸時代の諏訪の人たちは、俺たちが日本一の社寺を造っている、いやその仕事に携わっていなくても、仲間が日本一の仕事をしているという誇りがあったと思います。その思いが造る事にこだわりを持って造るという姿勢になり、その後の製糸産業の発展や、精密工業の発展に繋がったのではないかと思います。諏訪人のそういう姿勢は、私も諏訪の会社で働いた事があるのでよく分かります。そして仕事以外の趣味でも半端ないものがあります。また諏訪人の御柱祭に対する情熱も半端ではありません。会社も御柱の行事の時は務めている人が殆ど来なくて仕事にならないので、初めから休日にしているくらいです。次の御柱は来年4~5月ですので、もう準備を始めたと思います。ただ、コロナでどうなるかですが、そんなものは諏訪人の知恵と工夫と情熱で跳ね返す事でしょう!

下の写真… 最後に狛犬(こまいぬ)です。小さくて可愛らしいように見えますが、よく見ると迫力があります。いつの製作か見ると江戸時代の安政5年です。この石像も石碑と同じで、全く崩れていません。そして今見て来た本殿も明治17年(1884年)建築で、137年経っていますが全くそのように古ぼけて見えません。ここはパワースポットなのでしょうか? そういえば本殿の正面の彫刻は「瓢箪から駒」です。有りえないことが起こるというお告げなのです。ここは歳を取るのを遅らせてくれるパワースポット神社なのかもしれません。是非一度、参拝してみては如何でしょうか。

2021年5月1日 記  カメラ SONY  RX10Ⅳ

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タイに仕事で10数年滞在していました。日曜日はゴルフをしていましたが、ある時花の綺麗さとカラフルな鳥の美しさに気付いてしまいました。  それからはカメラをバッグに入れてゴルフです。あるゴルフ場では「写真撮りの日本人」で有名になってしまいました。(あ、ゴルフ場には迷惑をかけておりません。)それらの写真をメインに日本での写真も織り交ぜて見ていただければ幸いです。 また、異郷の地で日本を思いつつ自作した歌を風景の動画とともにご紹介していきたいと思っています。