大陰謀の巻2
女将にそっと挨拶して玄関に出ると、御前様らしき初老の侍と御付きの侍二人が、堀端に向かって歩き始めた所だった。大黒屋と木島屋は、三人が一緒に居る所を見られない様に先に帰ったのだった。堀には一艘の猪木舟が待っていた。御前様と二人の侍はそっと舟に乗り込み、舟は直ぐ横の江戸橋に向かった。半月が夜空に浮かび、微かに江戸の町を浮かび上がらせていた。この明るさなら舟を尾行できると判断した龍之進は、気付かれないよう岸伝いにそっと追いかけ始めた。舟は江戸橋を潜ると右折し、楓川に入っていった。龍之進は急いで江戸橋を渡り、楓川沿いの道を静かに走り出した。
その時だった。前方から手裏剣の鋭い音が闇の空気を裂いて、舟を追いかける龍之進を襲った。龍之進はその音から反射的に体を逸らし刀を抜いた。間髪を入れず黒装束の者が龍之進の右横から走り寄り、刀を横薙ぎに振ってきた。龍之進は素早く屈み込みながら敵の刃を躱し、刀を横に大きく振った。アッと小声を発した曲者がよろめいた。
「お風様!」
もう一人の黒装束が走り寄り、斬られた黒装束を抱えると楓川に飛び込んだ。龍之進は川岸に走り寄り川を覗いたが、暗い川面には何も見えなかった。しかし闇の中には微かな香の匂いが漂っていたのだった。龍之進は先ほどの御前の話から、今襲撃してきた二人は風魔の忍者ではないかと思った。一人はお風様と呼ばれていたので、高い位の女忍者であろうと推察した。そして斬った手応えはあったが、多分浅手で死ぬことは無いなと感じていた。川の先を見たが、もう御前の乗る猪木舟は見えなくなっていた。龍之進は追跡を諦め、屋敷に帰る事にしたのだった。
再び静寂が戻った楓川の舟入り堀の水面に、二つの黒頭巾の頭が浮かび岸に這い上がってきた。男の忍者はお風様と呼ばれる女忍者の脇腹の傷の手当てを素早く行った。お風は傷の痛みより初めての敗北に打ち拉がれていた。今までに二人の連続攻撃を躱した者は無かったのである。あの男が何故御前様を尾行しようとしたのか理由は分からなかった。しかし自分たちが影の警護をしていた為、御前様の後を付けられて正体がばれるのを防いだ事が慰めであった。敗北の苦い思いを闇に残して、二人の忍者は江戸の暗い町並みに消えて行った。
次の日の朝、峰山親子は南町奉行所を訪れた。奉行の島田利正と定廻同心の山岸左門は、龍之進が藤野屋の離れで聞いた御前様と呼ばれる男の話を聞くと、衝撃を受けていた。御前様と呼ばれる男の目的が、予想だにしない家光様暗殺にあったからだ。そして最終目的が、自分の殿を次の将軍にしようというとんでもない陰謀だったのだ。しかもそれを達成するために忍者まで使うのだ。しかし龍之進は襲撃した忍者の一人が女である事は何故か話さなかった。奉行が呟いた。
「風魔小太郎始めその一族は家康様が殲滅したと聞いておる。しかし今の話を聞けば、生き残った者が何人かおったという事だ。となると忍者共は金だけでは動いておらぬ。風魔一族の仇として家光様を狙う事になる。厄介な事になったな。」
「お奉行、大黒屋や木島屋は証拠さえあれば捕まえる事が出来ますが、忍者では何処に居るのかも分からず捕らえる事は困難です。また御前という者に至っては我々町奉行では力が及びません。如何したらいいのやら、弱ったものです。」
「山岸、弱っている暇はないぞ。ところでその御前という男の話から、その男はどこかの大名の家老ではないかな。そして自分の主君を将軍にしたいという事なら、あのお方ではないかな。」
奉行は謎掛けのような言い方をした。それに清之進が直ぐ答えた。
「それは駿河大納言様ですな。まず間違いないかと。」
清之進が言った駿河大納言とは将軍家光の弟の徳川忠長の事であった。家光と忠長は二代将軍秀忠の子であった。そして三代目の将軍の座を勝ち取るために兄と弟は熾烈な争いをし、最終的に兄の家光が勝ったのであった。忠長としては面白くない。自分が将軍であってもおかしくないのである。しかしこの時まだ二十五歳の若さではそれを実現させる力が不足していた。忠長の気持ちを理解している御前は、自分の欲望も合わせて陰謀を企てていたのであった。駿河大納言と言う清之進の言葉に全員が頷いていた。しばらくは誰も言葉を発しなかったが、龍之進がその沈黙を破った。
「大納言様を我々がどうする事も出来ません。肝心なのは家光様暗殺を阻止する事です。そのためには忍者共を捕まえればいいのですが、山岸様の言う様に顔も居場所も分からないのでまず無理でしょう。となれば暗殺しようとする時期と場所、そして手段が分かれば何とか阻止できます。しかしこれも難しいのですが。」
「暗殺者にとっては毒殺がやり易いし、逃げ易いのかな。切り込んでくる可能性もあるが目的を達成できるかどうかは不確かで、尚且つ生きて帰る事も難しくなる。」
山岸はそう言って黙ってしまった。清之進が変わって話し始めた。
「時期については幕閣工作用資金一万両が出来てからでしょうな。まだ少し時間はあるでしょう。この金が出来た時に動き出す。金は大黒屋から木島屋に動いて、金を膨らませている最中です。これが何時一万両になって御前の所に運ばれるのか、その時が分かれば対処しようがあると思います。」
「拙者もそう思います。そこで勇五郎に木島屋、吉蔵に大黒屋への張り込みを言い付けておきます。お奉行、それで宜しいでしょうか。」
「大納言様の屋敷は如何するのか。見張らなくて良いか、山岸?」
「お奉行、大納言様の屋敷は桜田門近くで、周りも大名の屋敷で見張る場所がありません。それに他に中屋敷、下屋敷もありますので見張りは難しいかと思います。」
「それもそうだな。ちと無理か。まあ木島屋の動きが分かれば問題ないわけだ。」
打合せは半刻程で終った。今までは雲を掴むような状態だったが、事件の全貌が浮かび上がり、捜査の対象が絞れてきた事に全員少し安堵したのだった。
次回 地龍の剣56 に続く
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