カンボジア アンコールワット 2

アンコールワット1 の続きです。

今日は西大門の内側に入ります。アンコールワットの主要部が姿を現しました。それに向かって通路が伸びていて、所々に庭に降りれるよう階段がついています。この庭は草で覆われていますが、昔はどのようだったのですかね?お花畑だったのではないでしょうか。なお未だに修復は続いており、寺院の一部はグリーンのシートで覆われています。

振り返ると西大門にクメールのビーナス(本当はデバターという)がたくさんありました。4枚の写真をご覧ください。どのビーナスも微笑んでいます。アンコールトム 3のビーナス像と比べてみてください。まず気付くのは彫の深さが浅いことです。アンコールトムのほうが半世紀遅い建設です。その間にかなり立体的な表現になっています。2枚目3枚目の足元を見ればわかる様に、彫が浅いため足の向きを90度曲げた不自然な形になっています。

でも胸飾りや冠はアンコールワットの方が立派な気もします。また薄いドレスに模様が入っています。私はファッションに疎いのでよくわかりませんが、この昔にそのような布が織れたのでしょうか?

ビーナスの冠や衣装などを見ていると半世紀前のアンコールワットの時代のほうが豊かだったような気がします。

下の写真はだいぶ近づいてきたアンコールワットです。観光客がかなりたくさんいます。

下の2枚の写真は通路の左側の聖池という池から撮った写真です。池は睡蓮や水草がいっぱいで、池に綺麗に映るアンコールワットの写真は撮れませんでした。聖池は中央の通路を挟んで右と左の2つの池があります。おそらくアンコールワットを池に映して、幻想的な雰囲気を醸し出すように設計したのだと思います。アンコールワット 1の門の仕掛けで分かる様にこの寺院の設計者は色々と趣向を凝らしています。

最後の写真は回廊の柱の落書きです。1632年1月に日本人によって書かれた落書きです。落書きした日付、名前も文章中に書いてあります。森本右近太夫一房という侍で、お父さんは加藤清正の重臣だった人です。落書きは他の落書きと重なって見づらいのですが、写真の右上から縦書きで12行にわたって書いてあります。

1632年は江戸時代初期で鎖国がまだ本格化する前ですので、外国との行き来は制限があるにせよ可能だったわけです。本格的に鎖国体制になるのは1635年の第3次鎖国令からで、東南アジアへの渡航禁止、及び日本人の帰国禁止という厳しいものでした。

そして落書きは森本一房さんだけでなく、全部で14か所もあるとの事です。他の日本人も訪れているのです。1500年代から日本人は東南アジアに進出して、各地に日本人町が出来ました。それで日本にアンコールワットが祇園精舎として広まったようです。それを知った森本一房さんがお母さんの供養に仏像4体を奉納するために、日本から訪れたのです。そういう事を落書きに書き残しています。

余談になりますが、本当の祇園精舎はインド中部にシュラーヴァスティ(舎衛城)として存在しています。インドが天竺で南インドが南天竺の事なのですが、その頃の日本人は東南アジア付近を南天竺と考え違いをしていましたので、アンコールワットを祇園精舎と思ってしまったのでしょう。最もアンコールワットは考え違いをさせるほどの威容があったればこそです。

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タイに仕事で10数年滞在していました。日曜日はゴルフをしていましたが、ある時花の綺麗さとカラフルな鳥の美しさに気付いてしまいました。  それからはカメラをバッグに入れてゴルフです。あるゴルフ場では「写真撮りの日本人」で有名になってしまいました。(あ、ゴルフ場には迷惑をかけておりません。)それらの写真をメインに日本での写真も織り交ぜて見ていただければ幸いです。 また、異郷の地で日本を思いつつ自作した歌を風景の動画とともにご紹介していきたいと思っています。