北陸の旅 白川郷

本年最後の投稿になります。今年はコロナの為にとんでもない年になってしまいました。生き方がガラッと変わってしまった方も多いと思います。どんな事を言っても、最終的には今日明日食べるための金が無ければどうにもなりません。我々一般庶民は高い税金を払ってきました。しかしその税金が一般庶民とは関係ない所に流れたり、外国に援助の名目で流れていきました。そこをきちんと改めれば、路頭に迷う人も少なくなるだろうし、餓死する人は無くなるはずです。どこかの国に忖度するような政治家が多すぎるような気がします。ここは日本です。日本人のために動いてくれる政治、および私利私欲のない政治家が多く出る事を強く願う次第です。

普段は穏やかな調子で書くのですが、今の日本の様子を見て、ついきつい文章を書いてしまいました。申し訳ありません。

さて今回は北陸の旅の最後の目的地、白川郷です。

下の写真… ホテル「十番館」さんの朝食です。10種類ものおかずが付いて、朝も豪華な食事となりました。またまた朝から満腹です。

下の写真… 能越自動車を南下し始めました。途中の休憩所で富山湾の奥に聳える山を撮りました。多分、立山連峰付近かと思います。0mの海から3000m以上の頂きまで遮蔽物なしに見えます。そういう所はあと日本に何箇所かあります。どこだと思いますか。答の一つは西伊豆海岸です。あそこは駿河湾から富士山の頂まで3776mの高低差を一目で見渡せます。そして三保の松原です。ここからは雄大な富士山が間近に見えます。そして遠くなりますが三浦半島の西海岸や、内房総の先端付近から3776mが見えます。

能越自動車を小谷部砺波JCTまで行き、北陸自動車を横切って東海北陸自動車道に入り、白川郷ICで降ります。

下の写真… 駐車場に車を置いて、徒歩で合掌造り集落に向かいます。庄川に架かる吊り橋の「であい橋」を渡ります。橋の中央部から庄川下流を見た眺めです。良い所ですね。

下の写真… 橋を渡り真直ぐ行くと、お寺に突き当たりました。江戸時代から続く明善寺です。お寺の入口は茅葺屋根を持つ鐘楼で、二階に鐘があります。

下の写真… 鐘楼を見上げた写真です。中々立派な鐘楼ですね。この鐘は太平洋戦争時代に供出されており、ここにあるのは戦争後に作られた鐘だそうです。あの時代は資源が乏しいため、庶民の鍋、釜まで供出させられました。村人の大切なお寺の鐘までも持っていき、大砲や戦艦などに変わったわけで、今は太平洋の深い海底に眠っている事でしょう。実際に戦争になれば国どうしの総力戦になり、鍋、釜だけでなく御国の為という言葉で、人の命も赤紙で差し出されてしまったのです。でもよく考えるとその御国というのは何でしょうかね。

下の写真… 白川郷の一般的な合掌造りは切妻屋根ですが、このお寺の建物は入母屋屋根になって、複雑な形になっています。

下の写真… この屋根が切妻屋根です。この形の方が単純で、2階、3階部分が広く取れます。養蚕をやるには明り取りや通気もよく、こちらが適していたと思います。しかしこれだけの立派な家を作り維持していくのは大変だなと思います。屋根の葺き替えは20~30年に一度は行なわなければなりません。膨大な量の茅と副材料の材木や竹や縄を用意するのに人手やお金が掛かります。また晴れが続く日を選んで、一気に葺き替えるには大勢の村人の手を借りなければなりません。そして集落に茅葺が20軒以上あれば、一年に一度はどこかの家の葺き替えがあるでしょう。村人の団結が無ければ出来る事ではありません。お金と団結についてはこのブログの最後で説明します。

下の写真… 家の前の田んぼは田植えが終わったばかりで、緑の苗が日を浴びています。この田の水は集落の中にある17か所の湧水から引いています。

下の写真… 湧水を集めた水路です。水が綺麗なためニジマスが空中に浮いているように見えます。

下の写真… この家は大正3年に建てられた家です。まだこの頃はガラスは高価だったと思います。それを惜しげもなく使った当時としては超ハイカラな建物だったのではないでしょうか。こういう家も今は見かける事が少なくなってしまいました。

下の写真… 見学の途中でお昼を頂きました。飛騨牛定食です。これも美味しかった。この旅行は美味しい物ばかり食べていたような気がします。

下の写真… 屋根の葺き替え工事をしています。この工事の要は、いかに茅を圧縮して積み重ねるかという事です。圧縮が弱く隙間が多いと、そこから雨が束ねた茅の内部に入り、早く腐ってしまうという事です。そうすると10年くらいで葺き替え工事をしなくてはならなくなってしまうそうです。

最後に、この記事を書いている時に、偶然にもテレビのブラタモリで丁度白川郷をやっていました。そしてその番組で驚く事を知りました。上の葺き替えしている家は観光用のトイレなのですが、実は白川郷の家のトイレは江戸時代に重大な役目をしていたそうです。畑の肥料にしていた?そんなのは全国でやっていますね。想像すらできない事ですが、火薬の原料を作っていたのです。エッと思うでしょう。尿にはアンモニア成分が含まれています。それに草や蚕のフンを混ぜて硝酸成分に変えます。更に灰汁を加えて、灰汁の中にあるカリウム成分と結合させて硝酸カリウムが出来るのです。

当時の火薬の原料は硝石(硝酸カリウム)、硫黄、炭ですが、硝石だけは日本になく、輸入に頼るしかなかったのです。その為硝石の値段は高く、供給不安定で何とか国産化する必要があったのです。その製法は誰が考えたか知りませんが、白川郷や五箇山村が一大産地でした。他の産地では数年がかりで作っていましたが、白川郷の製法では1年で作れたという事で、かなりの収入があったのではないでしょうか。蚕で高価な絹糸が取れ、その蚕のフンと村人の尿で硝石を作り、それが高く売れる。と考えるとこの村はかなり豊かだったと思われます。そうでなければこのような合掌造りの大掛かりな家は出来ないし、維持も出来なかった事でしょう。この村は山奥にありながら、当時の秘密のハイテク工業団地だったという事でしょうね。そして硝石を作る技術を盗まれないようにするためには、村人の団結力があったのではないかと思います。

2020年12月27日 記  カメラ CANON  G1XM2

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タイに仕事で10数年滞在していました。日曜日はゴルフをしていましたが、ある時花の綺麗さとカラフルな鳥の美しさに気付いてしまいました。  それからはカメラをバッグに入れてゴルフです。あるゴルフ場では「写真撮りの日本人」で有名になってしまいました。(あ、ゴルフ場には迷惑をかけておりません。)それらの写真をメインに日本での写真も織り交ぜて見ていただければ幸いです。 また、異郷の地で日本を思いつつ自作した歌を風景の動画とともにご紹介していきたいと思っています。